【鶴賀若狭掾の新作】
 
           
 鶴賀若狭掾は新内芝居の開催、八王子車人形とのドッキング、一人芝居と新内等々、聴いて見て楽しい新内、分かりやすい新内をモットーに様々な創意工夫で、新内ファンの増加をはかる事に尽力している。

 古典の発掘はもとより作詞・作曲も多数あり、新内舞踊創作の他、最近では「春琴抄」「滝口入道」「高瀬舟」「十三夜」「註文帳」 「夜陰の森の中」(宮沢賢治の新内童話)、舞踊劇「浮島の祠り」落語「品川心中」「鰍沢」「芝浜」等五十数曲発表している。

 中でも鶴賀若狭掾脚色・作曲・演出の「滝口入道」は、意味深い作品である。 新内史上、能のシテ方との共演は初めてである。 「新内・能・朗読・車人形」の4大コラボレーションである。

 地方も筝・新内三味線・太棹・長唄三味線・横笛・尺八・鼓・と正に音楽劇といえる。

 法政大学の新校舎杮落とし公演や高山市・白山市でも上演し大変な好評を得ている


【新内芝居】

「若旦那勘当始末」
榎本滋民 作
鶴賀若狭掾 作曲


「十三夜」
樋口一葉 作
鶴賀若狭掾 作曲


滝口入道の場面】










1994年初代鶴賀伊勢太夫二十三回忌追善
1994年初代鶴賀伊勢太夫二十三回忌追善
鶴賀伊勢太夫 (現 鶴賀若狭掾) 新名取披露
於 国立劇場 小劇場


1998年10月3日鶴賀若狭掾リサイタル
1998年10月3日鶴賀若狭掾リサイタル
於 国立劇場
 


 





【新内の歴史】

新内節(新内浄瑠璃)

 日本の伝統音楽は数多くの種類があります。 その伝統音楽の中に三味線音楽があり、その中には約15種類のジャンルがあります。 大阪で生まれ文楽人形と共に今日に至る義太夫節、京都の一中節、江戸で生まれた豊後系浄瑠璃 長唄、小唄、地唄、荻江、歌沢、宮薗等等今以って継承されています。


唄物(うたもの)と語り物(かたりもの)

 三味線音楽は二つに大別されます。 唄物(うたもの)と語り物(かたりもの)です。

 どちらも三味線を伴奏楽器として、唄物は物語や情景を叙事的に唄い、浄瑠璃は物語を叙情的に語ります。 浄瑠璃の方が幾分感情移入が多くドラマチックであります。

 唄物には長唄、地唄、小唄、端唄、荻江などがあります。

  語り物は浄瑠璃物ともいわれ、義太夫、豊後系浄瑠璃の新内・常磐津・富本・清元(江戸浄瑠璃4派)等が あります。各々それぞれ曲調の特色があり、節も発声も違い、三味線も棹・糸の太さも、駒も皮の厚みも張り 具合もそして撥の大きさも厚みも目方も、その上材質まで違うジャンルもあります。 語る演目(文章)も勿論流派によって異なります(同じものもある)。
 よって表現の方法と形がジャンルによって異なり、それぞれの特性を出して聴衆に訴えます。 各流派が特徴ある表現方法と演者の個性が三味線と語りにのって、あるときは豪快に繊細に、優雅に大胆に 激しく優しく、嬉しく哀しく、大小細太と、愛欲と涙と喜びの織り成す人間模様を美しい日本語で創造します。


江戸浄瑠璃

 江戸浄瑠璃=新内は浄瑠璃の一派であり初代鶴賀若狭掾を始祖に1760年頃生まれました。

 京都で生まれた一中節の始祖である都一中(みやこいっちゅう)の門人である都半中は、1730年頃に江戸へ 出て宮古路豊後と改名(後に豊後掾)して豊後節を創りました。 官能的で頽廃的な曲調は江戸市民に一大ブームを巻き起こし大流行となりました。
  しかしその頃江戸にて心中が流行しており、その原因が豊後節の流行と結びつけられ、また風紀上の理由と 他の幾つかの理由とを付けられて、豊後節を語ることを禁じられました。 その上稽古する事も名前を使う事もすべて禁止という弾圧を受けたのです。
 そのために宮古路豊後掾は京都へ戻り芸を捨てたようです。
 しかし江戸に居る門人たちは困りました。 芸も出来ず生活もできません。そこで門人は宮古路や豊後の名を捨てて名前を変えて新しい歌詞と曲を創 り始めました。
 その中の一人は常磐津節・富本節・清元節そして新内節を創設したのです。 これを江戸浄瑠璃4派と呼びます。 親を同じに生まれた4派ですがそれぞれが新作を創り独自の道を歩み始めました。 常磐津・清元は主に歌舞伎や舞踊の伴奏音楽となり発展をしてきました。 新内は他の芸能とはタイアップせず素浄瑠璃の形態で今日まで続いて来ました。

 新内の始祖である初代鶴賀若狭掾は、他の豊後節系浄瑠璃とは違い江戸三座には出演せず、座敷浄瑠璃 素浄瑠璃(すじょうるり)として他の芸能とは提携せずに発展し、多くの作品を残しました。
 現代で云う天才シンガーソングライターであります。 その若狭掾門下から盲人の鶴賀新内が現れます。彼の鼻に抜ける美声の新内に人気を得て大当たり。その為いつの間にか鶴賀節を新内節と言われるようになりました。
  他の豊後系の諸流とは別の芸風を生み、素語りの自由な語り物としてもっぱら遊里を中心に定着し、いっそう官能的、情緒的な語り口となり、庶民から愛される身近な音楽となったのです。
  今日に伝わる新内はさらに洗練されて高低の旋律が変化に富み、そして語り口は嫋嫋(じょうじょう)として哀調切々と繊細にまた大胆に聞く人の心に訴えます。このような物悲しい雰囲気をもつ新内は心中の美学といわれ、心中を美しく謳いあげているとも云われます。
 また新内の三味線は他の流派にはない特有の美しさを奏でます。本手と上調子の二挺の三味線が織り成す美しく繊細で優雅で微妙な音色は切々と心に響きます。

 

【新内流しとは】

 新内と言えば新内流しをイメージする人が殆んどでしょう。

 粋な着流しに男はよしわらかむり吉原冠り、女は吹き流しの手拭いで三味線を弾きながら廓や花街を流す(歩く)。客の求めに応じて屋外から、ときには座敷に招かれて演奏をするもので営業形態の一つです。
 しかし新内流しは本来の新内の姿ではありません。30数年前まで吉原、深川、柳橋、浅草、神楽坂等で見受けられましたが、今は全く見る事ができなくなった江戸の情緒ある風物詩です。
 三味線の曲は「らん蝶」の一節で唄(語り)を入れないものをアレンジしてます。江戸時代の末期頃からの出現のようであります。